2010年10月18日月曜日

倫理と言語のアナロジー

前回は「人間の倫理感覚は生得的である」ということを述べたが、この主張だけを取り上げると、私の立場は「性善説」的であるように聞こえるかもしれない。しかし、私は性善説の立場をとっていないし、そもそも「性善説」という考え方自体が、倫理学的にはナンセンスである。

なぜなら、「性善説」という以上、何が「善」なのかということが、先験的あるいは客観的に定まっていなくてはならない。つまり、「善なるもの/こと」が予め決定されている状態で、「人間は生まれつき「善なるもの/こと」を行う」と主張するのが性善説だ。しかし、何が「善」なのかということこそが、倫理学では議論の対象である。「困っている人を助ける」といった、明白な「善行」のように見えることも、それが善と見なしうるかどうかは検証を要するのである。

では、「人間の倫理感覚は生得的である」ということは、一体何を意味するのか。この主張を性善説的に受け取ってしまうのは、倫理という言葉に原因がある。倫理という単語は、(1)人として行うべき道、という意味と(2)善悪を判断する基準・規範、という意味の二つがある。「倫理学」という時の意味は(2)だが、人はつい(1)の方の意味も汲み取ってしまうため、倫理学を修めた人間は人間的にすばらしい人間であるはずだと思ってしまう。同じ理由で、「倫理感覚は生得的」というと、つい「人は生まれつきよいことをする感覚がある」と誤解してしまうのだ(なお、これは英語のethicalでも同様の誤解が生じる)。「倫理感覚は生得的」ということの本当の意味は、「人間は生まれつき倫理的文脈で思考する能力を持っている」ということである。

「倫理的文脈」という言葉は聞き慣れないので、もう少し説明する。進化心理学に、「心のモジュール仮説」というものがある。これは、人間の精神・思考能力は汎用コンピュータのように何でも考えられる、というものではなく、いくつかの専門処理モジュールの組み合わせで出来ているという考え方である。このことが、「スイス・アーミーナイフのような心」と表現されることもある。つまり、何でも使える汎用の道具ではなく、アーミーナイフのように用途ごとに道具が分かれているもののセットだということだ。そこで措定されているモジュールには、「物理学モジュール」「心理学モジュール」「博物学的モジュール」などがあるが、どのようなモジュールがどのような関係で分布しているか、またモジュールの規模をどの程度に設定するかについては、研究者の間でも未だ合意がない。現段階では、人間の精神は一つの大きな塊なのではなく、いろいろな「部位」が分業しつつ働いているというくらいの認識が共有されているという状況である。

さて、そのような心のモジュールがいくつかある中で、私の仮説は、社会的ルールに関する情報処理を受け持っているのが、「倫理学モジュール」ではないかということである。つまり、人間の精神には、倫理的に考える専門の部署があるということである(なお、これは脳の特定部位が倫理的な思考を受け持っているということを意味しない)。とはいえ、「倫理学モジュール」というと少し担当範囲が狭いかもしれないので、本当はもう少し汎用性の高いモジュールの一部分かもしれない。いずれにせよ、「倫理的に考える」ということは、文化や教育の賜物ではなく、生得的・本能的な精神の働きであるということを私は主張したいのである。

これを平たく言うと、「人間は、倫理的な思考回路を生まれつき持っている」ということだ。この主張を吟味すると、生得的な「倫理的思考回路」があるなら、人間として守るべき道は一つなのではないか? という疑問が生じうる。生得的な回路から導き出された倫理的立場があるとすれば、それが文化や国に関係なく、人間として「唯一の」「正しい」倫理的立場になるのだろうか?

当然ながら、そうではないだろう。その説明のために、迂遠なようだが、倫理と言語との比較を考えてみたい。言語能力も人間が生得的に持つ能力である。言語自体は文化に依存しているため、自然発生的に赤ちゃんが話せるようになるものではなく、周りの人間を通じて学ぶ必要があるが、「言語能力」は生得的である。今後も、言語と倫理との比較はたびたび出てくる予定なので、これをもう少し丁寧に説明しよう。

言語は文化的所産であるという考え方が以前はあったのだが、20世紀にノーム・チョムスキーが生成文法の理論を打ち出し、現在では言語は生得的な能力であることが常識になっている。具体的には、人間は「普遍文法」と呼ばれる「言語のモトになるもの」を生得的に備えているといわれている。チョムスキーは、諸言語は表面的には多様な文法を持つように見えるが、根本的な文法構造は共通していると考えた。その根本的な文法構造こそ、人間が生得的に備えている「普遍文法」である。

しかし、「普遍文法」という文法を備えた言語があるわけではない。この文法はいわば「メタ文法」であり、言語の文法の構造を決めるための文法である。だから、英語とか日本語とか中国語とかいった具体的な言語は、この普遍文法に文化的・歴史的に決まるパラメータを「代入」して構成されたものであるとも言える。ここでパラメータと言っているものの意味は、猫を「ネコ」と呼ぶか「cat」と呼ぶか、というようなことである(当然ながら、実際にはもっと複雑なパラメータがあり、SVO型なのかSOV型なのかといったこともパラメータになる)。

さて、人間には生得的な「普遍文法」があるからと言っても、何かある言語が最も「正しい」言語だということはないし、ましてや「唯一の」言語などない。もちろん、論理的表現に適した言語はあるし、感情表現が得意な言語もある。だから、論理的表現のために「最善の」言語はあるかもしれないし、感情表現に「最適な」言語もあるかもしれない。つまり、何かの価値観・評価基準を設定すれば、その枠内で一番の言語を決めることはできる。だが、措定された「価値観・評価基準」が恣意的なものである限り、それは恣意的な評価に過ぎず、客観的・普遍的な意味で「正しい」「唯一の」「最善の」「最適な」言語があるわけではない。

人間が生得的に「倫理的思考回路」を持っているといっても、 そこから導き出される倫理的立場が唯一ではないと考えられる理由もそこにある。人間が生得的に持つ倫理的思考回路は、普遍文法のような強力な原則も提供するが、文化的・歴史的にしか決まらないパラメータも備えていると考えられている。

「普遍文法」というメタ文法は言語を構成する規則であるので、これだけでは実用的な言語にならない。普通の意味で実用的な言語を構成するためには、単語や構文という文化的・歴史的にしか決まらないパラメータを代入されることが必要だ。これと同じように、私の考えでは、倫理もそういったパラメータを代入することによって初めて成立するのではないかと思う。すなわち、我々は生得的に倫理的思考回路を備えているが、それを実用的に使うためには、その回路で動かすソフトウェア=社会的規範を必要とするのである。それはあたかも、言語能力は先天的であるが、言語は後天的に学ぶ必要があるということに比せられる。

というわけで、我々人類が倫理的思考回路を先天的に持っているということは、その回路から導出される唯一の倫理的立場が存在することを意味しない。よって、先ほどの疑問、「人間として守るべき道は一つなのではないか?」という疑問には、否定的に答えることができると思うのである。人間の倫理感覚が生得的であったとしても、そこからは多様な倫理的立場が生み出されうるし、恣意的な価値観・評価基準を定立せずにそれらの立場の優劣を論じることもできない(だが、逆に言えば、ある価値観・評価基準を定めることにより優劣を論じることはできるのであり、私は、後にそれを試みる予定である)。

さて、生得的な倫理的思考回路が存在し、そこに文化的・歴史的に決定されたパラメータが代入され、ある倫理的立場を構成しているということを仮定しよう。これは、換言すれば、倫理的立場は、生得的な機構を基盤としつつも、歴史的・文化的なチューニングを経て構築されているということだ。では、このようにして構築された倫理的立場を批判する方法論はどのようなものであるべきだろうか? 

言語の場合を考えると、我々は「どのような言語で話すべきか?」ということは普通問題にならない。もちろん外国語習得の場合はそう考えるが、母語の習得の場合は普通は選択の余地がない。そしてもちろん、「日本語はいい言語だ」とか、「英語は悪い言語だ」といったような言明は意味が無いし、「中国語は正しい言語だ」とか、「フランス語は使われるべきでない」といった言明も有害無意味である。

それと同様に考えると、「この倫理的立場はいい」とか、「悪い」とかいうことに意味があるのだろうか? そして、「どのような倫理的立場で行動するべきか?」という問いは、そもそも限定された文脈の中でしか意味を持ち得ないのではないだろうか。

言語の場合、母語の異なる人間が集まった時、「どの言語で話すべきか?」は当然問題になる。それと同様に、倫理的立場が異なる人間が集まり、共同して行動する必要が生じた時、「どのような倫理的立場で行動するべきか」は問題になりうるだろう。しかし、実際にはこのような形で行動原理が定まることは稀である。なぜなら、倫理的立場の調停は非常に難しく、共同してある倫理的立場を取ることは現実的でない。こういう場合に行われるのは、「どのような行動ならば、各人が納得できるか」という調整であって、倫理的立場そのものの調整ではないのだ。とはいえ、限られた場合にはこのような問題が顕在化することもある。例えば、政治的な論争において、「社会を競争的にすべきか、弱者を救うべきか」というような問題は、一面において「どのような倫理的立場で行動すべきか」を共同して決定する問題であるとも言える。こういう意志決定が必要であるからこそ、「政治哲学」が問題になるわけだが、これについては本節のテーマとは異なるので、別の機会に語ることにする。

というわけで、「どのような倫理的立場で行動すべきか」という問いには、異なる倫理的立場を持った集団における場合でなければ、簡明な答えがあるように見える。つまり、「その社会で是認されている倫理的立場で行動すればよい」というものだ。それは、我々が「その社会で話されている言語で話せばよい」と考えることに似ている。そして、言語の場合はそれで何ら問題ない。では、倫理の場合、このように考えることは何が問題なのか?

すぐ気づくように、「その社会で是認されている倫理的立場」というものが曖昧であることが第一の問題である。そもそも、「倫理的立場」なるものが明文化されることは極めて稀である(ある種の宗教や、「倫理学」の中だけではないだろうか)。普通の人は、「周りの人間なら自分の行動をどう評価するか」ということを想定することによって、自分の行動が是認または否認されるかを評価するのであり、「社会で是認されている倫理的立場」というものを、自家薬籠中にしている場合は少ない。

もちろん、我々が現代社会に生きているからそう思うのだ、という面もある。江戸時代には、倫理的立場はもっと明確であったし、より均質的に日本人に共有されていた。例えば、正直や親孝行の徳とか、忠君愛国の徳といったものが、現代社会よりずっと明確で普遍的だった。我々が「社会で是認されている倫理的立場」を曖昧な存在に感じてしまうのは、現代社会が模索期にあることを意味しているのである。これは西洋社会でも同じであり、キリスト教が絶対的な権威を持っていた時代にあっては、「社会で是認されている倫理的立場」はキリスト教の教えそのものであったわけだが、現代社会ではこう単純に言えなくなってきている。

第二の問題は、 「社会で是認されている倫理的立場」が(ある程度の曖昧さがあったとしても)とりあえず存在しているとして、それに従うことが本当に「いいこと」なのか? ということである。換言すれば、そもそも「社会で是認されている倫理的立場」は「いいもの」なのか? ということだ。すでに述べたとおり、善や悪というものは、先験的・客観的な概念ではない。だから、何が「いいこと=善」なのかは、それこそある倫理学的立場を措定しなければ語ることができない。

だから、この問題は論理的な意味では的外れなのだが、実際の行動原理を導き出す必要がある「政治哲学」的には重要な問題である。行動原理として現在「社会で是認されている倫理的立場」よりもある意味で「よりよい」ものを探っていかなければ、どんなに精緻な哲学的言辞を弄んでも、結局は現状是認のための理論を作っているにすぎないからだ。だから、第二の問題は、純粋理論的には的外れだが、実用上は重要である。

まとめると、 「その社会で是認されている倫理的立場で行動すればよい」というプラグマティックな考え方には、二つ問題があるということだ。一つ目は、そもそもそのような倫理的立場が曖昧であり、ひょっとするとそのようなものがない可能性もあること。二つ目は、本当にそのように行動することがよいかどうかは、検討を要するということだ。

そして、私は進化心理学的な立場から、二つ目の問題点に補足して、次のことを留意しておきたい。それは、大抵の倫理的立場は、本能的な倫理的思考回路を基盤にしているために、現代社会にマッチしない部分も存在しているということだ。

再び言語との比較を考えよう。言語は社会を写す鏡でもある。 コンピュータがある社会には、コンピュータという単語があるし、上下関係を明確にすることが必要な社会には、それ相応の尊敬表現が発達する。言語はあくまでコミュニケーションツールであるとすれば、社会における必要なコミュニケーションを果たすために、言語は社会の変化に即応する必要があるのだ。では、倫理はどうだろうか? 倫理が社会を運営するための心理的ツールである、と言い切ると反論がたくさん出そうだが、私はこの見方を採用している。とすれば、倫理も社会の変化に即応して変化するのではないだろうか。実際、切腹が正義だった時代もあるが、今では切腹は自殺であり、介錯人は自殺幇助罪に問われることになる。確かに、倫理も社会に応じて変わっていくものだ。

しかし、倫理は言語よりもずっと柔軟性が少ないもののように思える。言語は、社会の変化に鋭く対応していくが、倫理はもっと緩やかに変化していく。あるいは、不変の部分が大きいと言ってもいいかもしれない。倫理的思考回路に先験的に組み込まれている倫理的原則は、基本的に人間が狩猟採集社会で暮らしていた時のルールに基づいていると考えられる。だから、我々は、現代社会とは似ても似つかない社会のための倫理的思考回路を未だに使って、倫理的立場を形成しているということなのだ。これは、倫理を考える際に、私が最も重要だと考えている認識である。

つまり、 「社会で是認されている倫理的立場」が、そもそもその社会にマッチしていない可能性があるということだ。

2010年10月9日土曜日

人間の倫理感覚は生得的

人間の倫理感覚は生得的なものを基盤にしている。といっても、多くの人はなかなか納得しない。倫理や正義といったものは文化的な所産であると思い込んでいるからだ。確かに、倫理が記述された「遺伝子」は未だ特定されていないし、どこからが生得的でどこからが文化的なものなのかを示す研究は不十分だ。

しかし、進化心理学が示すところによれば、人間の倫理感覚には確かに生得的なものがある。例えば、次の例を考えよう。
【事例1】コントロールが効かなくなった暴走列車が線路上を走っている。このまま走ると、電車に気づいていない線路先にいるハイカー5人が確実に死んでしまう。一方、その5人のいる前に線路の分岐があり、分岐した線路の先にはハイカーが1人歩いている。そのハイカーも暴走電車に気づいておらず、もし電車が分岐先に進行すると、このハイカーも確実に死んでしまう。あなたは、ちょうど分岐器の所にいて、電車の進行線路を変えることができる。さて、あなたは電車の進路を変えるべきだろうか。
これは倫理学の講義でよく出てくる事例である。この事例を要約するならば、「傍観すれば5人が死に、行動すれば5人の命を救うことができるが、無関係な人間1人を死なせてしまう」というジレンマである。

この事例において多くの人は、分岐器で電車の進路を変えることは倫理的に「許される」と感じるが、「義務である」とか、または逆に「許されない」とは感じない。

そして、別の事例として、同様に倫理学の講義でポピュラーなのが次のようなものだ。
【事例2】あなたは外科医である。今、電車事故で5人の重傷者が運び込まれた。5人は心臓や肝臓など、それぞれ違う臓器を一つずつ致命的に損傷している。しかし、その時血液検査に来ていた5人とは無関係な男の臓器を5人に移植すれば、その男は死んでしまうが、5人を助けられることが分かった。あなたは外科として、1人を犠牲にして5人を助けるべきかどうか。
これは、先ほどの事例と同様に「傍観すれば5人が死に、行動すれば5人の命を救うことができるが、無関係な人間1人を死なせてしまう」という問題である。しかし、先ほどの例とは逆に、この場合では多くの人は、1人を犠牲にして5人を助けることは「許されない」と感じ、「義務である」はもちろん、「許される」と感じることもない。

同じ「1人を犠牲にして5人を助けるかどうか」という問題なのに、なぜこのような違いが生じるのだろうか。しかも、(倫理学的なトレーニングを受けていない)多くの人は、なぜそのような判断の違いが生じるのか、自分でもうまく説明することができない。

【事例1】で電車の進路を変更することを「許される」と判断した理由を問うと、多くの人は「1人を犠牲にしてでも5人を救うことはよいことだから」という素朴な(功利主義的な)理由を答えるが、その後【事例2】について判断を求めると、「【事例1】では5人を救うために1人を犠牲にすることが正当化できるが、この場合は認められない」と言い出す。だが、その理由についてうまく説明できる人は少ない。しかも、うまくその理由を説明することができないのに、その判断自体は不思議なことに強力で、容易なことでは変わらない。そして、その判断を正当化するためにいろいろな理屈を考え出すが、結局整合的な説明を行うことに失敗し、論理が矛盾してしまうというパターンに陥る人が多い。 

つまり、そう判断する理由が自分自身でも明確でないのに、判断自体は瞬間的かつ強力に下されてしまうのだ。しかも、この2つの事例については、国や文化が異なっても、同様に上述のような判断が下されることが分かっている。そして、2つの事例の差異すら、多くの人は明確に認識することはなく、判断が異なる理由も説明できない。これはなぜだろうか? 

これに対する1つの回答が、「その判断は、生得的な感覚に基づいて直感的に行われているからだ」というものだ。これは、進化心理学における標準的仮説である。 私の立場は、進化心理学的な立場に立って「正義論」を見直したいというものなので、当然この仮説を採用する(なお、この立場を「直観主義」という)。しかし、この仮説を認めない立場があることにも言及しなければフェアではないので、この仮説は倫理学的には論争中のものであることを付言しておく。

さて、上述の2つの事例での判断が生得的な感覚に基づいているとすれば、換言すれば「本能的」に下されているとすれば、その判断が「瞬間的」かつ「強力」に下されることは理解できる。本能的なシステムは、一般的に非常に効率がよい。例えば、熱いものに触った時に手を引っ込める反応は本能的な反射だが、これは瞬間的(脳すら使わずに)に行われる。また、言語能力も生得的な能力だが、コンピュータでも解析困難な構文読解をなんら意識することなく人間は行うことができる。そして、本能的なシステムは、一般的に修正が困難である。例えば、クモや蛇への恐れは本能的なものだが、これを克服するには時間や意志が必要になる。また、不潔なものを避ける気持ちも本能的なものであり、新品だとわかっていても、尿瓶から水を飲むのは非常に抵抗があるものだ。そして、聞こえてくる母語の言葉の内容を理解しないように努めるのは困難だ(自然に、内容が「わかって」しまう)。このように本能的なシステムは瞬間的かつ強力に働くため、人はその理由をいちいち考えたりせず行動してしまう。クモや蛇はそんなに危険ではないし、尿瓶であれ新品なら普通の容器と変わりない。このようなことをいちいち頭で納得しなくては、自分の行動を変えることができないのだ。(なお、言語の場合は、意識的に内容を理解しないようにすることは、ほとんどの場合不可能である。)

そして倫理観というのも、このような本能的なシステムの1つなのだ。であるからこそ、判断が瞬間的で強力なのである。しかし、人はその判断を直感的なものと考えることはあまりしたくないらしい。上述の2つの例であっても、判断の理由を尋ねられた人が最終的に「理由はわからないけど、そう感じるんです」と開き直ることはあるが、最初から「そう直感するだけです」と答える人は少ない。むしろ、自分の判断を正当化する様々な理由を捻り出すのが普通であり、そこから功利主義や義務論が導出されてゆく。そして、普通の「正義論」においては、そうして人が無理矢理捻り出した論理、敢えて言えば「屁理屈」を取り上げて、人の倫理的立場を語っていく。しかし、そのような屁理屈に何か価値があるものだろうか? 判断は直感的・瞬間的になされるにも関わらず、それを後付けで正当化するだけの理屈に正義論としての価値はあるのだろうか? 私は、そのような理屈に価値がないとは言わないが、本質的なものではないと思う。

むしろ重要なことは、なぜ人間はそのように直感的に判断するのか、ということを事例研究によって丁寧に明らかにしていく作業なのではないだろうか。そして、生得的な倫理感覚とはどういったものなのか、帰納的に定式化することではないだろうか。

例えば、【事例1】と【事例2】の判断が異なる理由は、進化心理学的には次のように説明される。【事例1】では、1人が犠牲になるのは「結果として」であって、「予見される副作用」である。一方で、【事例2】では、1人の犠牲(殺人)は5人を救うための「直接的な手段」である。進化心理学的には、
  • より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は「許される」
  • 仮に、より大きな幸福をもたらすためであれ、人間を単なる「手段」として使うことは「許されない」
という生得的な原則があるとされる。そして進化心理学的な立場に立つと、「正義論」は、このような格率(maxim)を積み重ねることによってしか考えることができないという立場がありうる。その意味で、進化心理学的に正義論を考えるとすれば、例えば「社会の効用を増大させることが善だ」という原理を置く功利主義などのように、論理的な明快さや単純さを備えた少数の原理から全理論を構築することは不可能である。

そして、功利主義とか義務論といったような既存の正義論に私が不満を抱く理由の1つもそこにある。何が正義なのかという問題は、単純なドグマ(教条)から導き出せるようなものではなく、本来はもっと複雑玄妙なもののはずである。それを、単一のドグマから導出できると考えるのは、いかにも一神教的な考えではなかろうか(言いがかりかもしれないが)。

さらには、正義論の体系が無矛盾であるべきだというのも、1つの信仰に過ぎないと私は思う。功利主義的な立場を措定して善悪の判断をすれば、一応無矛盾に結論を導くことができる。上述の事例であれば、【事例1】でも【事例2】でも1人を犠牲にし5人を救うことが善になり、理論的には 判断が一貫することになる。しかし、本当に一貫して、矛盾がない理論が「よい理論」なのだろうか(ここでは、何が「よい理論」なのかという問題はひとまず措く)。

理論の無矛盾性は、数学や物理学では重要であるが、こと倫理のような微妙な問題において、理論が内部で矛盾を来さないようなことの方がおかしいのではないか。つまり、ある理論の下に、この世の全ての事象が解析・判断できるとしたら、その方が眉唾である。倫理の理論には限界や矛盾があっておかしくないのではないだろうか。もちろん、限界や矛盾がなくてはならないと言いたいのではない。ただ、実際は本質的ではないはずの無矛盾性などに拘泥した結果、(西洋の)学者は荒唐無稽な正義論を構築してきたのではないかということである。

2010年10月5日火曜日

緒言

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義、「正義論」が話題になっている。私は流行に乗り遅れてしまい、iTunesUで後追いしながら見ているところだが、違和感を感じるところも少なくない。

いや、サンデル先生の解説は適切だし、プレゼンテーションはうまいし、教室内をうまくコントロールするすべは驚嘆すべきものがある。しかし、結局は「お勉強」に過ぎないという点で、不満を持ってしまう部分があるのだ。ハーバード大学といえば、世界一とも俗に言われるほどの大学である。そのハーバードでの授業なのにも関わらず、レベル的には日本の国立大学の授業とそんなに違いはないと感じてしまうのは私だけではないだろう。

もちろん、公開されている部分は編集を経ているだろうから、実際のハーバード大学での講義はもっと高度なことを教えているのかもしれない。しかし、現在日本で流行っているのは、ハーバード大学での講義そのものではなくて、それをまとめたビデオ(NHKが放送した「ハーバード白熱教室」)と、サンデル先生の解説本(『これからの「正義」の話をしよう』)である。これらは、大変わかりやすく、一見取っつきにくい政治哲学を身近に感じてもらうという意味で大変すばらしい内容だが、私にとっては、本来の哲学が持つ奥深い思想が、あまりに単純化されすぎているという部分も感じられる。

そして、もう一つの不満は、サンデル先生の講義では、人間本性への言及が少なすぎるのではないかというものだ。最近のアカデミアの潮流としては、倫理は人間が文化的に作り出した人工物ではなくて、人間が本能的に備えているものだという考え方が主流になってきていると思う。その意味で、『人間本性論(人性論)』を記したデイヴィッド・ヒュームは時代を先取りしていたと言えよう。私にとっては、この認識が非常に重要であり、この認識の上でなければ、説得的な政治哲学を構築することは困難であると考えている。

そこで、倫理というものを、人間が本能的に備えているものだという立場を取りつつ、あり得べき「正義」の形を少しでも見えるものにしたいという思いでこのブログを開設することにした。